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常に言ってはいけない発言「気付きを得られた」

考え方

あなたはセミナーや勉強会に行きますか? あなたが行かなくても周囲でセミナーに言った人が「気付きを得られた」なんて言っているのを聞いたことがあるはず。

今回のセミナー、特にグループワーク中には自分の内面をさらけだす必要があり、大声で涙を流してしまう場面もありました。しかし、そのことを通じて、大きな気付きを得ました

感情を揺さぶるマインドコントロール系のセミナーに言った人に多い「気付き系」。この人たちは明らかに「体験を知識に変換するときの割引かた」を知りません。

「気付きを得た」は何にしても適切な表現ではない

一般的な日本語感覚を持った人なら「気づきを得られた」という表現に違和感を感じるはずです。まずはその違和感を解明します。

「気づきを得られた」の類似表現は何でしょうか。

  • 勉強になった
  • 新たな発見があった
  • 考えさせられた

他にもありますが、ようするに「知識を獲得した」際に使います。ではこの類似表現との差、類似表現には無い感情は何でしょうか。

「すでに存在していた内面的なものを発見した」

という点です。内面の発見。精神的=スピリチュアル的表現です。「悟り」を砕いた言葉です。

というわけでビジネスや技術の「知識を得た事」に大して、論理的でない表現を使う事自体、全然勉強していない証拠です。

こういう事を体感的に理解した人を前にすると、「気づきを得られた」発言は以下のように扱われます。

  • 勉強になる事が皆無の勉強会だったに違いない
  • こいつは何も勉強してこなかったに違いない
  • 気づいた=内包されていたけど、知らなかっただけ? なんて傲慢なやつだ
  • こいつは何か悪い宗教や自己啓発にはまっているんじゃないか
  • 大麻でラリってんじゃないか

どれに転んでも、この言葉がプラスに作用することはありません。


体験を割り引き・割り増しする考え方

ここまでの話は、ただの煽りであり、例えです。私が強くいいたい事は、獲得できた知識の価値と、精神的な動きにはそれほど相関が無いということです。

私が言いたいのは、体験で得た情報は必ずしも当てにならない、ということです。よって

  • 体験で得た情報は、そのまま扱ってはならない
  • 体験の種類によって、割り引き・割り増しをする必要がある

という点です。

外部から知識を獲得する手段として、主に以下の方法があります。

知識を獲得する手段

体験とは、五感の動員が多い順に、その人に強い印象をあたえます。人間は情報の8割を視覚から体験します。

これに加えて体験時間と意識の集中度が体験の大きさを決定します。長く集中すれば、体験は大きくなるし、TVを見ながらだったら、小さくなる、という事です。

進化のせいだと思いますが、人間は「自分が直面した体験は拡大解釈され、文字などの純粋な情報は過小に扱われる」ように作られています。種の存続の点ではこの選択は有利かもしれませんが、文化的・知的活動において正しい解釈ではありません。あなたは得た知識の重み付けを、調整する必要があります。

1時間のセミナーは「1冊の新書を読んだ」以下のものとして扱わなければならい。ということです。だから私はめったにセミナーや勉強会に行きません。その内容が文書として入手できない場合のみ、イヤイヤ参加し、鼻くそをほじりながら聞きます。人間の性質に負けないように、視覚や聴覚、集中などの体験を割り引かなければいけません。知人の推薦も2ちゃんねるの書き込み1レスと同列に扱います。

唯一、自身の体験は他のソースと異なります。「事実であることが確認された」わけですから。他のソースは「自分で確認していない情報」です。

その法則の再現性まで100%であれば、信頼度は100%なわけです。再現性を見極める事は重要です。自己体験の重力はとても大きいものです。再現性が低い体験はやはり、2ちゃんねるの書き込みと同列に扱わなければいけません。それがあなたの実体験であったとしても。


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今回の話は、私も戒めを込めて記事にしました。人間はすぐに自分の体験や親しい人の意見を大きく扱ってしまいます。「専門家が一生をかけて纏め上げた一冊の本」よりも、親の一言を大きく扱う例が世の中にはごまんとあります。

私も引き続き気を引き締めて生きていこうと思います。

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