極彩色の鳳凰堂が瀬戸内海に現存。広島尾道の謎寺「耕三寺」とその住職が凄い

一度は訪れてみたいと思っていた、知る人ぞ知る寺「耕三寺」を2015年の梅雨時に訪ねてきた。

ここにはなんと、京都平等院で有名な鳳凰堂(のようなもの)が、平安時代建造時を再現した極彩色のまま参拝者を待っている。そのほかにも日光東照宮の陽明門(のような)建築、五重塔(みたいなもの)が原寸サイズで境内せましとそびえ立っている。

「耕三寺」は、瀬戸内海に浮かぶ小島、広島県尾道市にある生口島という小さな島に位置している。

広島からのフェリーを降り、このような平凡な島道を歩くこと10分。

耕三寺の案内看板、続いて駐車場。さらにその奥に城のようなものが見えてくる。見えてくるがそれは城ではなく蔵だ。この蔵は耕三寺が備品補完に利用している、ただの蔵。城のような蔵を平然と持っている寺。それが耕三寺である。まずはこれくらいのスケール感を覚悟して読み進めていただきたい。

それでは、写真と共に耕三寺を紹介していこう。

耕三寺の最強の建築と収蔵品群

正面入口。京都御所の紫宸殿御門と同じ様式で作った門である。これは閉園時に撮影したが普段は開門されている。

さっそく境内を散策。正面入口のすぐ先にある門は京都法隆寺の中門を現代に再現した。門の絢爛豪華さもさることながら、奥に見える建築群。建物がびっしりである。

目線を近くにフォーカスしても激しくありがたい景色が展開される。コンクリにペンキを塗っているとかそういうものでなく、木材に朱を塗り、金細工や彫刻、瓦など全て完全に作ってある。

入り口すぐの境内見取り図を見る。本当に境内にびっしりと施設というか伽藍というか、とにかくパビリオンが詰まっているようである。

境内では女性スタッフにしか出会わない。彼女たちはおしなべて地味な装いでうつむきがちであった。最低限の案内が済むと言葉尻も聞き取れないような勢いで私のそばから離れていってしまう。

私の脳裏に「サティアン」という名詞が意味もなくこだまする。

入り口から見えたものは五重塔であった。「なんだ、五重塔か」感覚が麻痺している。

初めて他の参拝者に出会う。外国人のようであるが、一体どんな案内を頼りにここへたどり着いたのだろうか。素晴らしい建築物が所狭しと並んでいるにも関わらず、人が誰もいない事に戸惑いを隠せないようであった。

さらに石段の上にはすごく見たことがある建築が。日光東照宮の陽明門(のようなもの)である。

近づいてもかなりのディテール感。惜しみなく現代技術を投入して。江戸時代に対抗する。配色やパーツは独自のアレンジをしてある。ガンプラのカスタムカラーリングのようなイメージか。著作権的な理由があるのだろうか。

しかし、寄せ合わされた木材の質感、彫刻、金細工、どれも素晴らしく、眺めていると時間が経つのを忘れてしまう。

建造物のちょっと奥に目を凝らすと如意法輪観世音菩薩である。ありがたい。周囲にめぐらされた飾りも豪華絢爛である。この豪華な仏教芸術を屋外で見られる場所は日本にそうあるまい。

本堂は、京都の平等院鳳凰堂である。ここも和尚の軽いアレンジが見られる。

京都の平等院では、行列で長く待たされた挙句、古びた鳳凰堂とCGによる建設当時の再現VTRを見せられるわけだが、耕三寺では極彩色の鳳凰堂がそのまま再現されている。

それと比べれば、こちらのほうがよほど極楽浄土のようである。ありがたい。

ちょっと戻ると、中まで入れる建物があった。大阪四天王寺の金堂から着想を得て、和尚が大胆にアレンジした建物だそうだ。

中では貴重な茶器類が静謐さと共に展示されていた。独り占めの時間を楽しむ。

監視している人もいない。展示物は大変貴重そうだが、気温や湿度はともかくセキュリティ的に大丈夫なのだろうか。

十分に堪能して外にでると、五重塔を挟んで同じ建造物がもう一基ある。今出てきた建物が向かいに、鏡写しのようにあるのだ。暑さで頭がやられたかと冗談ではなく思ってしまう。

こちらは工芸と彫刻を展示しているようである。

私には理解が及ぶ範囲では無かったが、非常に丁寧な作品が多いように感じられた。

またしても独り占めである。大したことが無い作品群なのだろうか? 解説には安土桃山時代とか書いてあったのだが…。

続いての建築物は潮聲閣という名称のようだ。

潮聲閣は、元は住職の母の隠居屋敷として使われていたとの事。潮聲閣の公開時間は閉園時間より1時間短い。時間には余裕を持って訪れよう。

和洋折衷の昭和初期の建築である。長崎や神戸の洋館が霞んでしまうほどの出来栄えだった。どの建築も一見の価値があるが、潮聲閣も見逃せない。

小規模ながら趣味のよい苔むした日本庭園も備わっていた。母君も快適な隠居暮らしであったに違いない。

右に見える掛軸は、かの耕三寺和尚その人である。母の在命中から掛けてあったのだろうか。気になる。

仏間。天井から何から驚嘆すべき細工である。電気式シャンデリアを仏間にねじ込んでくるあたりが和洋折衷の洋の部分であろう。

少し休憩しようと細い道に入るも、小道にそって仏像がびっしりと並ぶ。

なんの説明もなく銅像が現れた。親鸞上人であった。こちらも仏教彫刻が所狭しと並ぶ。梁山泊さながらの構図である。ありがたい。

裏に回ると、用務ロッカーや長靴が伽藍にそのまま設置してあった。合理的である。

土台も合理的である。

ちょっと地味なパビリオンに出たと思えば。

地獄であった。どこまでも油断する事は許されないようだ。

ここもまた壁のいたるところに彫刻が安置されている。薄明かりを頼りに下へ下へと下っていく。

閻魔様によるお裁き。地獄行きは確定のようだ。

地獄を丹念に解説される。

「第七大灼熱地獄」邪見の罪はここへ落ちるようだ。私のような不届き者は反省しきりであった。

空洞に出ると、待ってましたとばかりにびっしりと彫刻群が。煙のようなものは気温差によってできた霧である。エクトプラズムではけっして無い。

ウェディングケーキ様の石組みで彫刻が並ぶ。地獄に仏とはいうが、大群で地獄に攻めすぎな気がする。


まだまだ他にも素晴らしい写真があるのだが、長くなりすぎるためここまでとする。

耕三寺の存在をこの記事で知った方はその建築群に驚きを隠せなかっただろう。それと同時に、何故このような寺が存在しているのかが気になるはずだ。

耕三寺の沿革と突き抜けた存在の耕三住職

主要な情報をwikipedia:耕三寺から引用しよう。

耕三寺の開山は、大正・昭和期に大阪で活躍した実業家の金本耕三(出生名は金本福松、1891年 - 1970年)である。金本は、神戸の生まれで、幼少期を広島県豊田郡南生口村(生口島)で過ごした。13歳(数え年)の時に父を亡くし、福岡県直方(のおがた)など各地で奉公を重ねた。後に大阪で、当時来日していたフランス人技師のセギーという人物から酸素熔接の技術を学び、これを生かして1921年、直方に日本スチール管株式会社を設立して鋼管製造業の経営を開始した。金本の会社は軍需工場に指定され、彼は一技術者から実業家へと成長していった。

事業に成功した金本は、1927年(昭和2年)、故郷瀬戸田に住む母のために邸宅「潮聲閣」を建て始めた(耕三寺内に現存)。母が1934年(昭和9年)に没すると、翌1935年(昭和10年)、金本は母の菩提を弔うため出家して僧侶となり名を福松から「耕三」に改めた。同年から潮聲閣周辺にて耕三寺の建立を開始した。

金本はかねてより、瀬戸田の地に誇りうる文化財のないことを残念に思っており、境内を日本各地の著名な歴史的建造物を模した堂宇で埋める構想を立てた。以来、30余年をかけて、日光東照宮陽明門を模した孝養門、平等院鳳凰堂を模した本堂などをはじめとした伽藍が完成した。なお金本は1956年(昭和31年)以降、自らを「耕三寺耕三」と名乗るようになった。

陽明門を模した孝養門から「西の日光」と呼ばれるようになり、瀬戸内海の観光地の一つとなった。平成期に入ってからは、建築物の特殊性が評価され、15棟が登録有形文化財として登録された。

まとめると、

  • 昭和初期の富豪が、母の死をきっかけに出家した
  • 母の菩提寺として寺を作った。それが耕三寺
  • 母が東照宮を参拝せず死去した事を偲び、陽明門を敷地内に建ててみた
  • ついでに鳳凰堂も建てた

という剛気な話である。

それにしても、これほどの奇跡なかなか起こる事ではない。誰か止める人はいなかったのだろうか。

金本耕三氏のバイタリティ溢れる半生
型破りの白い長髪の御仁が耕三和尚

氏と寺の成り立ちをもう少し掘り下げてみよう。

金本耕三氏は、福岡で生まれた。父は小さな鉄工所を営んでいたが、早くに亡くなった。そのため、耕三は早々に学業を諦め鉄工所の後を継ぎ、一家の大黒柱となった。

その後大阪へ渡り溶接技術を学び、大正2年には地元に戻り溶接の工場を作る事になる。これは努力家である本人の性格に加え、第一次大戦の好景気もあって大成功を収める。

耕三はさらにあらたな技術を獲得し、地盤を強固なものにしようとするが、大戦後の大恐慌により1度会社を失っている。しかし、その程度でめげる耕三ではなかった。その後大阪に渡り、2度の起業を経て、溶接業でさらに大きな成功を収める。その工場は軍需工場に指定され、巨万の富を築いたといわれている。

境内にあった年表を確認すると、ビジネスで成功を納めた、その後の趣味は浄瑠璃であったようだ。節を付けて歌うようにしゃべるアレである。旦那さんが商いが上手く行きすぎてやることがなくなり、手慰みにお浄瑠璃を始める。上方落語の世界をそのまま再現したような人だ。

年表には「竹元南部座太夫に師事し浄瑠璃を研究」とある

その後最愛の母が亡くなった。母を弔うため菩提寺を建てたい、という逆転の発想で耕三は出家する。母の菩提寺を建てるというのは戦国大名に匹敵する財力と発想の持ち主である。手慰みのお浄瑠璃を初めてしまうくらい人生に飽きていた耕三は、菩提寺建設という一大目標を前に、水をえた魚のように仏の道を歩んだ事だろう。最終的に耕三は西本願寺で得度し僧侶として認められた。ここからも耕三のバイタリティは続く。

まず莫大な財力を背景に、山梨にあった、潰れかけの得祐寺の住職になり、すぐさま寺を登記移転。寺号を耕三寺に変更し、母の故郷の広島県瀬戸田(生口島)に菩提寺として、件の建造物を建て始める。

神社仏閣といえば縁起絵巻。それくらいは勿論制作済みであった

何故誰も止めなかったのか。これが一番の疑問だ。普通であれば寺は檀家のお布施により成り立つ。財源の使途についても大きく檀家に左右されるところであり、普通ならここで待ったがかかる。しかし、耕三寺は耕三の財力で運営された。寺を移転しているのでそもそも檀家もいなかっただろう。耕三は西本願寺とも潤滑剤を存分に使ったに違いない。こういった理由で身内の邪魔は少なく、企画が頓挫する事はなかったようだ。

近隣住民の反発はどうか。瀬戸内海にうかぶ小島にそのような寺がいきなり建設される事は、静かに暮らす島の住民からの反発も予想される。しかし時の町長などを様々な力で組み伏し理解を得つつ「失業者救済」をお題目に寺の建築を行っていたようだ。確かに現在の生口島も、小島であるから造船施設が一部ある程度だ。これほどの建造物を30余年建て続ければ地元は潤うに違いない。地元への学校や病院設立にも私財を投下し、住民との関係性の強化していったようだ。

耕三はさらに個々の建造物の設計監督まで買って出たようだ。元々の溶接技術など建築に関連した技術をもっていたため、現場が怯んでその野望が潰えてしまう事もなかった。外観は木材などでリアルさを意識しつつ、土台や支柱には鉄鋼やコンクリなど最新技術を惜しみなく投入していたようである。住職で金主で監督。最強である。

五重塔は母の遺骨を納めている。というか、納骨堂として五重塔を建造したらしい。こんな発想をする御仁を止められる人はそういない。

しかし戦時下の日本では苦難もあったようだ。

昭和15年「中型インコ600百羽100種及び丹頂鶴20羽を飼育するも物資統制の為中止し大空に放つ」とある。引き際にあっても豪気な耕三に周囲も怯んだことだろう。

このように、普通であれば「待った!」と言われるフェーズをことごとく独力でねじ伏せ、21世紀にその偉容をそのまま残すことになったようだ。

さて、このお寺、建築費はいくらかかったのだろうか。誰でも気になる質問に、耕三はこう答えたと伝えられている。

「この耕三寺は母親の墓である。誰れでも親の墓はつくる。私はその親の墓石を木や瓦に代えてお寺を作ったのである。お寺を建てるのに金の事を考えたこともないし建てた後いくらかかったかを計算した事もないので、値段を聞かれても答えることが出来ないし、その上たまらなくいやな気持がする。」

是非広島県尾道、三原市近辺に訪れた方には、少し足を伸ばして寄っていただきたいスポットである。

耕三寺DATA
【開園時間】
9:00~17:00 年中無休
【入館料】
一般 1,200円 高校生700円 小中学生無料
※団体割引あり

【アクセス】
●山陽自動車道
尾道IC→西瀬戸尾道IC→生口島北IC→耕三寺(50分)
福山西IC→西瀬戸尾道IC→生口島北IC→耕三寺(40分)
※生口島北ICより13分

●しまなみ海道
今治ICー生口島南IC→耕三寺(35分)
※生口島南ICより13分

※三原港・須波港・尾道港からフェリーが出ているため車なしでも島へ渡れます

【住所】
広島県尾道市瀬戸田町瀬戸田553-2
【電話番号】
0845-27-0800

【参考】
耕三寺公式サイト
続・わたしの遠野物語
尾道企業家列伝Ⅱ~尾道ゆかりの先人企業家たち
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