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【後編】セミリタイア2年経過後の活動や思考のまとめ

30代セミリタイア生活の2年分をエッセイ的につづる記事の第二回。リタイア生活の情報を求める人々に向ける個人的な雑感である。

後編の今回は、アーリーリタイア生活における活動や思考といった広範囲なものを扱う。引き続き個人の体験を求めてくれる方々のために、そのような視点を意識して執筆している。

前回記事はこちら

早期リタイアのロールモデルは存在しない

アーリーリタイアを実際にしようと思った時に非常に困るのが、それに関する情報がほとんど無い事だろう。お金の稼ぎ方みたいな話はあっても、リタイア生活の実際を語るような書籍は見たことが無い。これは対象読者の数が少なくビジネスとして成立しないからだろう。

私の場合、それでも何か無いかと、老後リタイアに関する書籍や、本田健氏や橘玲氏の書籍をあたってみたが、セミリタイアの生活を垣間見るという意味では全く役に立たなかった。老後本は「楽しく生きていこう」みたいな、これシニアにも全く役に立たないだろう、といった感が否めない内容だし、後者からは生活臭がしない。全ての筆者がリタイアしてないからこういう事が起こるのかもしれない。

書籍をあたっても無駄なので、探さない事をおすすめする。

私はその後、国内外のリタイア実践者から話を見聞きしながら、自分でライフスタイルを構築してきた。

アーリーリタイアは孤独になりやすい

そんな背景もあり、セミリタイアは孤独の存在となる。ロールモデルの不在は、それぞれが俺ルールで好き勝手しているという事だ。そうするとリタイア者は社会の通念から乖離していく。社会との乖離は、他者との乖離につながる。

そうやってリタイア者は孤独の存在となっていく。

前編の繰り返しとなるが、自分の資産だけで生きていくという生活の背景と、上記の乖離によって、他者への共感力がどんどん弱まっていく。こいつもうええわ、と他人との関係を断ち切りやすく(相手からもただの人なので切りやすい)、社会のネガティブな変化も、いざとなったらシンガポールにしばらく住も。と、どんどん社会と乖離していく。

ストレスのある環境をことごとく取り除ける。同時にストレス耐性が低くなっているといえるかもしれない。

孤独を嫌う人はリタイアすべきではない。苛立たしさや無駄もあるだろうが、社会的な役割をある程度担い続けたほうがより良い人生を送れると思う。

資産と投資の話題

概念的な話になってしまったので少し具体的な話題に戻そう。資産と支出に関してだ。

私の場合、身一つで会社を起こし、会社を譲ってしてリタイア生活に入った。リタイア生活の突入は、経済が再び立ち上がるリーマン・ショック後の時期に、運良くある程度重なった。非常に順調な滑り出しだったと言える。総資産と資産増減について今は公開していないが、リスク値が17%代でリターンが年間5%程度のポートフォリオだ。30代半ばなので、リスク値がかなり高いが、最大損失(約年間50%)マイナスが出ても夫婦2人リタイア生活を維持できる程度の資産は確保することができた。リスク値は年齢に応じて下げていく予定だ。

というわけで市場の急落には平静に対応できる。超長期投資スタイルだ。無駄にやきもきしないよう、今後は相場を出来るだけ見ないような生活にしていきたいと考えている。

リタイア生活の支出について

支出に関しては、年収400万くらいの家庭と同じかと思われる。子供もおらず貯金も不要。生命保険も不要なので比較すると随分楽かもしれない。少なくともこれくらいは安全圏だろう、という所で支出している。資産とリターンの精査がもう少し出来たら、意味のない節約は控えたいと思っている。

お金との付き合い方はまだまだ勉強中だ。現役時代はお金に無頓着だったが、リタイアしてからお金の効用をちゃんと考えるようになった。

例えば、この期間の間に高級なレストランに言ったり、数十万円するカバンを買ってみたり、プレゼントを奮発してみた。どれも心からしたかった事ではなくて、自分がその行為で得たものをどう感じるかを確認したかった。結果は、どれにも大きな意味は見い出せなかった。寄付も同じ。

結局のところ、地元の食材を買ってきて自分で料理して、たまに外で牛丼食って、ABCマートで靴を買ってユニクロの服を着れば十分だ。元々貧乏な家に生まれたのがリタイア生活を安定させる秘訣になっているかもしれない。

リタイアすると支出は原則減少する

これも人と接する事が減った事によるものが大きく関係していそうである。私が赤坂とか恵比寿?やらで働いてたら、彼らと同じような出費を引き続きしていただろう。消費財は、収入によって決まるのではなく、周囲の人々で決まる。高級なスーツや車を身にまとう人々の中で、チープなスタイルを維持するのは難しい。これは経済学からは反した考えだが、心理学的には正しい。脳が周囲や地位イメージと劣等している事を危機と感じ、その状況を許さなくなるのだ。劣等感というのは一種のストレスなので、ストレスに耐え続ける人はどこかでその代価を支払わなければならない。

その点、リタイア者にはロールモデルや一般的という価値基準が存在しないので、機能的価値だけで消費財を選ぶ事が多い。よってユニクロを着るわけだ。ロールモデル不在から逆に散財する人もいるかもしれない。

支出パターンについては、他のリタイア仲間も似たようなもので身に付けるものは質素なのが普通だ。会社を経営して役員報酬などで上がりを得ているような、比較的社会とのつながりが強いリタイア者は、身に付けるものが良く、それ以外の部分でも支出も大きめな傾向が強いように思う。

人から贅沢に見えるものに強い満足感を得られる人は、リタイアに向いていないというのが私の持論だ。贅沢品の好みと社会性は相関している。

アーリーリタイア者の余暇時間の使い道について

私の場合、趣味もゲームだとか読書だとか安いものしか無いので、趣味に関する出費もそれほど変わらない。収集癖も無い。唯一旅行は定期的に国内外に行っている。それも現地の人と同じかそれ以下の衣食住をするので、それほど大金を使う事もない。それでも国内に生活基盤を維持したまま1ヶ月海外をぶらついたりするので、それなりの支出にはなる。

これはリタイア仲間が言ってた事だが、リタイア者は、まっ平らな人生に緩急付けるために、旅行に積極的になるのかもしれない。それくらいリタイア後には何も無い。

いいところは勿論ある。生活編で語ったが、生活に関することはほぼ全て自分に決定権がある。ハマった趣味が現れたらそれだけを追求できる。

無職になって初期のころは、規則正しく毎日時間割を作って趣味時間を割り当てたりしていた。今は心に正直に、ハマっているものをトコトンやることにしている。私の場合、基礎教養の勉強→ポーカー→英語の勉強→ブログ執筆→ドラクエ10→プログラミング→そしてまたブログに戻って来た。やりたくない事の中で、やる必要が無いものは切り捨てている。

リタイア後の人間関係について

繰り返しになるが、交友関係はどんどん狭まっていく。意識的に他人との接触を増やし、交友を継続させなければならない。私みたいな孤独をまったく感じたことがない人でも、人と接点を増やさなければならない。

透明人間になるとその人は死にたくなるみたいな話があるが、これは一理ある。外の世界にまったく反射が無い状態のまま生きる事は、生きる動機を失う事につながる。

生活のバックグラウンドが安定しすぎると人生に中々波風が立たない。1人だとなおさらだ。解決すべき悩みというのがほとんど発生しない。パーソナリティとしての悩みはもちろん尽きないが。

幸せな人生と愛には密接な関係があるという研究結果がある。

愛が人生の全てだと言うつもりはないが、とても重要な要素だと思う。あなたが幸せになりたければ、リタイア後も積極的に他人に接していくべきだし、できることなら家族を手に入れる事だ。他人に影響を与えたいとさほど思っていなくても、他人から影響を与えてもらうために人に接しなければいけない。

都会と地方どちらがリタイアに適しているか

先日、読者の方からお便りをいただいた。

その中で「私は都会暮らしだが、地方でのリタイア生活はどんなものでしょう?」という疑問があった。都会暮らしが長い人からすれば「そんな田舎でリタイアして何するんだ」という漠然とした疑問が鎌首をもたげるのだと思う。

これは、リタイアをしていない人の大きな誤解である。リタイア仲間をつぶさに観察してきたが、都会でリタイアしようと田舎でリタイアしようと、何もない。凪が続く。老後の生活をイメージしたり、ニートのそれをイメージすればいい。もう少しマシなところで、アメリカ的なリタイアのカントリーに牛を買ってポーチのロッキングチェアでパイプを吹かすようなやつだ。

なぜそうなるのか。

それは、膨大な時間があるからだ。

普通の勤め人であれば、平日の余暇活動は2〜3時間がいいとこだろう。スポーツをするか、映画を見るか、学習をするか。どれか1つだろう。忙しい人なら週末も生活を維持するだけで、連休以外は余暇活動が難しいという人がいるかもしれない。

リタイア者は、7日間起きている間ほぼ全てが余暇活動時間だ。その上ストレスがほとんどないので、自分の回復をはかる事にも時間を消費しない。土曜日に毎週パーティをして、日曜日にディズニーランドにいっても、あと5日は余暇が残る。

だから都会にいても田舎にいても、ほとんどはポーチで過ごす事になるわけだ。田舎のニートと都会のニートが同じなように、我々もまた同じだ。

私の場合はポーチの変わりに、1部屋借りてそこに毎日通ってブログを書いたり、ゲームをしている。ディズニーランドに行きたければ、東京とは言わず、パリでもフロリダでも行けばいい。膨大な余暇時間は、目的地への距離や時間を相対的に圧縮する。

こういった理由から、都会であれ田舎であれ、凪の5日間を穏やかにすごせる場所を選ぶのが良いだろう、というのが私からのアドバイスだ。個人的には空港に近い地方で都会へのアクセスも可能なところ、たとえば房総半島の北のあたりはどうだろうと良く考える。

人生の理想的な選択となりうるか

結局のところ、早期リタイアの生活には、何もないわけだが、そんな生き方をしないほうが良いのだろうか。私はそうでは無いと言いたい。漠然とした時間は、私やリタイア者自身があえて漠然とした時間にしているのだ。いつでも選択できるように。

突き詰めると、働ける年齢でリタイアするという事は、究極に自由な選択権を欲するという事だと思う。

他の記事でも言及したことがあるが、自由な選択が出来るなら、勤め人でも全く問題無いし、フリーランスでも良い。しかし多くの場合、行き過ぎた労働は、自由な選択を奪い、非人間的な生活に陥れる要因となる。私の場合、自分で会社を起こしたにもかかわらず、資本主義の効率性に自己をフィットさせなければならず、結果非人間的な生活を送るようになってしまった。資本主義の奴隷とはよく言ったものだ。

「こんな事をやるために生きてるわけじゃない」

そう思う人にとっては、自由意志を取り戻す方法としてリタイアをおすすめする事が出来る。メンタリティ的には、フリーターや脱サラに近い。敗者の選択のように思う事もある。

資本主義的な成功者の次の段階としてリタイアをしようと考えている人がいれば、私はまったくリタイアをオススメできない。なぜなら、成功者には影響を与える対象が必要だからだ。商品を手にした顧客もそうだし、貴方の活動を羨望したり一目置いたりする人々などだ。リタイアをすると、交友関係が確実に先細る。あなたにとってその事が何より虚しく感じるだろう。リタイアは下りる行為だ。あなたの満足は下がる事ではなく上がる事で得られるのだから、別の選択肢を探そう。


私の今後の課題の1つは、ほとんどの自由意志を維持しながら広義の意味での「仕事」を両立させることだ。仕事というのは人生において魅力的な活動の1つである。しかし、資本主義の奴隷にならず、商業的に成功する事はまったく難しい。ボランティアであれ労働は、資本主義のルールで良し悪しが決められている。

画家であれ、学者で、そういった効率性を無視して商業的な成功をしている人は、歴史上本当に少ないのではないだろうか。

もしそんな事をやりながら余生が送れたら幸せな事だろうなと、最近考えている。


というわけで、アーリーリタイアは夢のような生活では無いが、引きこもりのような精神的負担が無く、自由な選択が可能なので、とても穏やかなものになると言えるだろう。

得られる結果が穏やかな生活だけならば、それ以外のライフスタイルでも実現可能だろう。

苦しみながらアーリーリタイアを目指している人、実現可能性が不確かな状況でリタイアを目指している人がいるとするならば、それは間違った選択だと思う。今ならそう助言してあげる事ができる。

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