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お金に余裕があって嬉しかったことと貧乏人の卑しさについて

 死ぬまで困らない蓄えができて、一番うれしかった事は何だろうと考えてみた。元来モノにも人にも自尊心にも執着がなくって、今じゃ30代にして働かずに引きこもってだらだらとブログを書いてる。そんな私でも金銭的な余裕があって嬉しいと強く思うことがある。

 それは人にお金を貸せること。

 貸すんじゃなくて贈与でも良いんだけど、とにかく家族や友人が金に困った時に、自分のダラダラ生活と妻の将来に影響が出来ない範囲だったら、金を貸す事ができる。これはとてもうれしい。

 私の両親はお金が原因で、私が10歳の頃に離婚している。

 私と兄弟は、母の力でなんとか成人するまで、学もなにもないがただ成人するだけは育ててもらったけども、父はいまや行方知れずだ。そんな父の境遇を知ってなお、昔の私はそんな事は因果応報くらいに思っており、父が一家離散の原因を作ったことを強く恨んでいた。

 離婚後しばらくは父の所在が確認できた。フラっと貧乏長屋の我々を訪れ、金の無心をする父。これを害虫を取り除くように追い返していたのを今でも強く覚えている。10歳そこそこの私がである。ホウキを握りしめ玄関に仁王立ちになっている少年。私と母は彼にたいしてそれを繰り返したのち、彼は最終的に行方知れずになった。

 家族でなくても大切な人、たとえば友人との間でもお金のやり取りというのはある。

 覚えている限り、過去私にお金の無心をした友人が2名いて、これはどちらも断った。それからお互いに気まずくなって音信普通になってしまった。

 さらに覚えている限り、私が貸したお金を返さなかった友人が1名いた。彼もお金を返せない事が理由で連絡を取りづらくなって疎遠になってしまった。

 1円の価値が自分の中で大きいと、こんな悲しい事が往々にして起きる。友情を取るか、はたまた来月の家賃を取るか。家族との絆を取るか、自分の命や人生を選ぶか。

 これはもちろん精神的にも影響して、貧困期間が長いと、お金に強く執着するようになってしまう。別にお金を集めたいとかそういう執着ではなく、お金から目が離せなくなってしまう。戻りたくないがゆえに、お金を重大なものとして扱ってしまう。これは良い部分と悪い部分があるので置いておこう。

 10歳の私に、20代の私に、今の蓄えがあればきっとみんな救えたんだろうし、彼らの事を恥知らずだと思う事も無かっただろう。

 家族や友人が本当に金に困るというシーンが私の人生の中で数年に1度ある。ここ最近そのシーンが回って来た。その時、私はチョットだけ渋った顔をして、ある男に金を融通をした。

 前述したとおりこんなシーンは、今までだったら身を切られるような思いで乗り越えなければならないものだったんだけど、今は「しょうがないやつめ。ワハハハハ!」みたいなもんだ。彼が金を返せようと返せまいと、彼に対する私の好意はまったく揺らがないだろう。

 金の無心をしてきた人に対して「私を頼ってくれて嬉しかった」みたいな事を言うエピソードをたまに聞く。

 いままでそんなやからはよっぽどの偽善者か嘘つきだと思っていたが、今ならこのからくりが少し理解できる。彼らは本当にそう感じているらしい。が、きっと彼ら自身は今日食べたパンを次は何日後に口にできるか、何週間後にガスや水道が復活するか、みたいな世界に身を置いたことがないんだろう。卑しさに引きずり込まれた事がない人だ。

 生まれの良い人たちは、きっとそんな理由で柔和で太陽のような笑顔を携えて周囲に幸せを振りまいていくんだろう。

 人生を引き換えに金を扱うというのは、本当に人を卑しくする。それをしなければ善人でいられるし、人にやさしくできる。

 今なら私も父にもやさしくできるし、これまでの事を謝罪できるだろう。

 これが私がお金に余裕ができて一番嬉しかったこと。

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