図書館にて、蔵書の検索を司書さんにお願いしている間、雑誌コーナーをうろうろしていた。そうすると月刊ビッグトゥモロウという雑誌が「セミリタイアの実際に迫る!」といった特集を表紙で大きく見出しにしてあったので、ページをめくってみた。すると不動産を沢山管理している人、アフィリエイトで生計を立てている2人のセミリタイア者の生活について書かれていた。彼らは不労所得と謳いつつ日々忙しく収益物件の管理に勤しんでおられた。いやそれセミリタイアじゃなくて個人事業主だろ。
というわけで、今回は早期リタイア後のロールモデルについて。ロールモデルという言葉は掴みどころがないので、噛み砕いていうと「まあマシだと思えるいくつかの人生設計の例」みたいな意味で使っていると思っていただきたい。これについて話していく。個人的には完結編。
やっぱりロールモデルは存在しない
私は早期リタイア後のロールモデルについて、リタイアする前に1年とその後2年、都合3年くらい真剣に考えてきた。リタイア後いったいどんな生活がベストなのだろう。「後」という文字が大事である。リタイア前のロールモデルは「私はこうしてお金持ちになった!」とか「ラットレースから抜けだした!」みたいな啓発本が書店に山程あるのでこれをあたれば良い。リタイア後の話だ。
しかし「後」についてはほぼ誰も言及しておらず、せいぜい「南の島でのんびりして、好きなことだけするぞ」程度の扱いだ。これについて私は、そんなばかな話があるか。もっとなんか、こう、あるだろう! 一般的な過ごし方ってもんが! と考え、真剣に仕事辞めてじゃあ何すんのよ。どんな生活がベターなのよ。というところを思案し・実践もしてきた。
で、結論としてやっぱりロールモデルは存在しない。無くて何がそんなに困るんだ、と読んでいる人はほとんど人は感じるのだろうが、30代40代で早期リタイアして平均寿命まで数十年、活動エネルギーがたっぷりある一個の成人が、何の指針も無く生きろ、といわれると当事者としてはかなり当惑する。みんなでサッカーをプレイ中にボールを1つ渡されて「あとはグラウンドの外で好きにボール遊び楽しんで良いよ」と言われたような感覚が近いかもしれない。ボールは蹴っても蹴らなくてもいいし、多分手で触っても誰も何も言わない。
これが話をややこしくする。
しかし、今までのルールが使えるわけではない
資本主義的なものに重点を置く現代社会で、早期リタイアは1つのゴールに設定されているといって良い。資本の出自はなんでも良い。宝くじが当たったり、株やらFXやら商売やらで一発当てたり、遺産相続でもなんでもいい。とにかく労働を切り売りすることに終止符を打って、自分の心と体を自由にする。食い扶持は資本の増殖によって賄うか、それすら必要がないくらい蓄えがある状態を目指す。
お悩み相談などでの
「こういうのが賢い人生の選択ってものだぜ」
といって導き出される結論は、だいたい資本主義社会の効率性に基いているものだ。本当は西側諸国の価値観やらそれに付随したキリスト教的倫理観うんぬんかんぬんとか儒教がどうしたとかイロイロ混ざり合っているんだろうけど、最終的に最大多数から「賢い選択」と呼ばれるのは、資本の効率に紐付いている場合が圧倒的多数だ。あなたがそれを外れる事ばかりしていると「あいつはアホだ」とか「あの人はほら…なんていうか優しいから」などと残念な評価を受けることになる。
というわけで食い扶持を楽に得るためのスマートな方法論が社会には確立、というよりは支配しており、その指針で個人個人の各問題にあたれば良いわけだ。社会全体で進むべき方向の共通認識がある。海は決して穏やかではないが、羅針盤が手元にある。
しかし食い扶持の確保が不要な場合、こういった方法論が一挙に葬りさられる。だってこれらは食い扶持を確保するためのスマートな選択であって、それ以外のための方法論では無いからだ。
現代社会の1種のゴールに到達したあと、それまでの方法論が一切通じなくなる。現代社会のルールにフィットしようとした人ほど、ゴールに近い人ほど、これに当惑する事になる。得意なゲームはもう終わってしまったのだから。もちろんゲームを続けて蓄えたパンの数を100個から10万個にすることもできるのかもしれないが、私は御免被りたい。
というわけで、ここからは、好きに生きる必要がある。
好きに生きろの難しさ
繰り返しになるが、社会通念上賢明な判断というのは、食い扶持を効率よく稼ぐための判断である。
食い扶持を稼ぐ必要が無ければ、良いとされる判断は社会通念上賢明な判断とは別になるだろう。そういったあらたな賢明な判断の基準を採用する必要がある。私がくどくどくどくど言って来た「リタイア後のロールモデル」とはこれの事だ。
資本主義的では無い物事の判断というのは、もちろんある。
例えば、最大多数の最大幸福を目指す社会主義的な判断であったり、宗教的やそれに類する倫理観による判断であったり、個人的快楽に基づく判断であったり。この辺の実際例は最後のほうにまとめて書いておこうと思うが、日本においてはどれも資本主義的な判断より支持者が少ない指針だろう。
あなたはリタイアしたあとに、資本主義的な判断の代わりに、こういった指針を吟味して選択する必要がある。
それが嫌なら、自分で価値・判断基準を独自に練り上げて判断する必要がある。既存の通念を無視して、何が良くて何が悪いのか、自分できめる。好きに生きるんだ。
全ての判断を独自に行う事は、これまで培った人間力みたいなものが試されるかもしれないし、多くのあなたの判断について他人から白い目で見られるだろう。最大多数派閥のルールに則っていないのはあなたなのだから、それは避けようが無い。あの人は仕事を辞めて、気がふれたみたいね、なんて言われるだろう。
そんな中、自分の判断を自分自身で支持し、貫徹するのは、超人のような人間でなければ不可能だろう。最大多数派閥のナイスから大きくかけ離れていれば、それは宗教家とか哲学者と呼ばれる。
中途半端に社会に迎合するのも上手くいかない
セミリタイアという言葉がある。私もたまに使うが、これはだいたい上手くいかないと最近思っている。(私の場合、人生の通過点といみでセミとしていた)。資本主義的なフィールドを全力で行き来している人々の間にゆるーく入って、判断基準も彼らほど徹底していないセミリタイア者は、まず彼らに勝つことができないだろう。不労所得といいつつそれらの管理は全力でしなければすぐ出し抜かれるはずである。
リタイア後の社会福祉などを通じた社会参加に関しても同様だ。強い信念があるか、強烈な孤独などの背景がなければ物味遊山終わってしまう。動機付けが弱すぎて社会に強くコミットできない。必然性が無ければナイスだと信じれる強い信念が必要だ。
部活のOBが煙たがられるように、リタイア者の社会へのちょっかいもうざがられて終わる場合が多いだろう。
こういった動機付けや価値観の転換によって、リタイア者はリタイアしたまま社会に参加しようとすると圧倒的弱者にとどめ置かれる。そもそも中途半端に資本主義的な判断を取り入れる事自体が、リタイア生活と相反しているため上手くいかない。
といったわけでリタイア者の社会参加の選択肢はフルタイムでコミットするか、必要最低限にするか、二者択一となる。どちらにも強烈な理念が必要となる。
リタイア者の人生観パターン
「ロールモデルなんてねーよ、自分で考えろバーカ!」で終わってしまうのはいささか心苦しい。私も数年気になってしかたが無かった問題なので、考えうるリタイア者の人生観パターンを列挙しておく。リタイア後の人生パターンというよりは、資本主義的価値観以外の判断をする人々をまとめたものだ。できるだけ哲学的なカテゴライズにならないよう、見聞きした私の感覚で分類した。結局のところどれも社会的には少数派のため、強い信念を持って、他者に「うるせーばか」と言わなければならない。
没頭できる遊びを追求し続ける人
これは一番分かりやすい。趣味でも仕事でも良いがなんかしらのライフワークに没頭し続ける。本人としてもなんだか良くわからないが楽しいのでただただこれを続けてしまう。こういったものを人生の一番大きな課題とらえ、人生の様々な物事を取捨選択していく。血縁を捨てるのも厭わない。これは信念よりさらに深いところから湧き出す力なので、心理的転換が起こる事も少なく、終生充実した時間が送れることだろう。これは切手収集から世界征服まで様々な形で表現される。
食い扶持をこういう形で確保できている人は、並のリタイア者より幸福だと思う。
静かな生活を追求する人
半径5mにあるもの、愛する人や日々の暮らしを大切にする。判断基準は、生活と愛する人が守れるかどうかになる。子育てや自給自足に大半の時間を捧げるような生活様式になると思うが、前述の没頭できる遊びと子育てや自給自足が同義にならなければいけない。でなければ、愛や地球の恵みに対する強い信念が必要になる。だから南の島でリタイア者はのんびりできないのだ。
ノブレス・オブリージュ型の人
「高貴なるものには義務がある」という考え方で、食い扶持があるのに働かないようなやつは、その余力を社会に還元して当然だという理念を一生をかけて実践していく。判断基準は社会貢献になるかどうかである。物心ついたころより裕福な人々がたどり着きやすい人生観だと個人的に思う。これらの人々は、政治家・宗教家・社会活動家など、なにかしらの社会的イデオロギーに携わる事になる。多くの場合、その信念によりフルタイムで携わる事になる。
信仰を追求する人
判断基準を神に委ねる。資本主義的な社会通念より信念を持ってそれを実践できる強力な存在といえば、神と神が定めたルールである。
快楽の追求をする人
それが快楽を伴うかどうかで人生を判断する。資本主義的な判断基準が使えない場合、快楽の量で物事を判断するというのは原始的でありつつも説得力のあるものになりうる。人生の幸福とは快楽の総量であるととらえ、脳内快楽物質の放出総量で、人生の幸福度を測る、といった論理的な説明も一応つく。社会的大逆転を達成したり、金銭的苦難から開放された人が選択である。ドラッグや性欲によるそれはわかりやすい例だろう。
破滅的ではあるがリタイア後は「うるせーばか! クソッタレ!」なので何を言っても無駄である。
興味の無限探求をする人
これは幼少期より将来の食い扶持が保証されている人になぜだか多い。広大な人生という空間を埋めるべく、自分の知的好奇心にまかせて世の中の様々な事をつまみ食いしていく人々だ。判断基準は好奇心である。よって快楽や信仰やその他のものへのアプローチもここへ内包される。幼少の頃から、自分にとって意味のない価値観が社会の大半を占めている事に対する反動みたいなものかもしれない。それ故1つのカテゴリーを突き詰める事があまりない。ただ、こういった人が人類にとっての傑作を生み出す場合がままあるので、信念に基づくというよりは、深く考えない天才肌なのかもしれない。
放浪を続ける人
こちらも好奇心に基づく判断基準である場合が多い。多くの場合これは独身である。社会との接点が希薄、もっといえば阻害されがちで、定住化するメリットが見いだせないため根無し草のように各地をただようように放浪して生きている人々である。むしろ放浪をすることで「旅行者」という扱いをしてもらえるために、一時的ではあるが社会と接点が生まれる。これは受動的な背景が大きいため、当人は強い信念を持っていないことがほとんどだろう。ただ彼らは資本主義的価値判断がもはや使えないことには気づいている。
これらに加え、何も考えていないやつや資本主義的価値観をそのままにリタイア後の人生を過ごすまぬけが何割かいる。
とはいえ、おまえの中で正解なら、どんな答えでもおまえの人生にとってそれが正解である。
まとめ
この記事の結論としては、リタイア者はどんなに他者から後ろ指さされても「うるせーバカ、こちとら別のゲームをやってんだよ」とうそぶく必要があるということだ。リタイア者でなくてもこういう態度を取っている人は勿論多くいる。作家の村上春樹氏なんかはエッセイで「金なんてこの世界に存在しないかのように生きていきたい」といった主旨の話をしていたが、資本主義社会に強くコミットしてきた人は、少なくともこの程度まではリタイア前後で価値観を大転換する必要がある。
早期にリタイアする予定が無い人がこの記事を読んだ際に、これじゃあリタイアするのもしないのも大して変わらないではないかという感想を得られるかもしれない。それは大部分あなたの考えが正しい。労働から解放されたからといってそれは人生におけるゴールでもなんでもない。そうは言っても、人生をどれだけハンドリングしているかという意味では天地の差がある。大衆のナイスを拒否できる。
強い信念を持って新たな自分だけの判断基準や取り組みを確立する。ロールモデルが無い代わりにこれを行うのが全リタイア者にかせられた課題なのである。
久しぶりにブログを書きました。この感メールやらメンションやらでご連絡いただいた人返信もしていませんがすいませんでした。随分時間が立ってしまったので何かあればまたお手数ですがご連絡ください。
— きりんの自由研究 (@giraffree) 2016年9月12日